私が「時間がなくて忙しい現代の親子が、もっと子育ての質を上げるためには、どうしたらいいのか」と考え続けた結果、
「もっと楽しく、ウチの子に合った子育てを!」をテーマに、たった15分の親子ミーティングで子供が「悩みや本当にやりたいこと」を自発的に話してくれるようになる、現代にピッタリな子育てコンテンツとして、親子1on1メソッドができあがった。
いろいろな方に親子1on1メソッドについてお話ししたところ、「ぜひ親子1on1をやってみたい!」「その考えに激しく共感します!」「指導現場で取り入れたい!」とウレシイお声をたくさんいただいた。
そして親子向け講座を実施後「この親子1on1を、世界中に広めたい!」と思うようになって、学校・習い事などさまざまな教育現場に携わる指導者向けの講座を作り、さらに「親子1on1メソッド」を直接保護者にお伝えする、インストラクター養成講座まで作った。
それまでは、私自身が親子1on1を伝えていくことばかり考えていたが、「誰かに親子1on1を伝えてもらおう!」と考えたそのとき、親子1on1は「言語化スキル」と「心理的安全性スキル」が二大柱になり、この2つは、親子に関係なく、全ての人間関係における「コミュニケーションの真髄」だと気づいた。
また、どちらもトレーニングをしていくことで、後からいくらでも習得できるスキルなので、実際に作ったいろいろなワークを、受講者の方とたくさんやってみたい、と思っている。
今回は、そのうちの「心理的安全性」に焦点を当てて、自分の気づきと共に、心理的安全性の意味を改めて考えていきたいと思う。
心がラクになる「イヤのこと」との向き合い方
イヤのことがあると、ヒトは「忘れたい」と思う。「イヤだ」という気持ちから逃げたい一心で、そのことを打ち消して「なかったこと」にしたくなる。
でも、イヤなことがあるたびに「忘れよう」と努力するのは、根本的な解決になっていない。なぜなら、忘れようとすると「忘れなきゃ」という意識ばかり働いてしまって、「忘れること」自体が目的になって、本当に目を向けるべきことが見えなくなってしまうからだ。
じゃあ、どうしたらいいかというと、起きている事実に目を向け「事実から何が学べるのか」を考えることだ。
でも、人は「事実」と「感情」を混ぜやすい。だから、何かが起こった時「何が起こったのか」という事実に目を向けずに、「自分はどう思ったか」という感情にフォーカスしてしまい、事実と感情がリンクして「とにかくその出来事を忘れたい」と思ってしまう。
でも、その起こったことを「ただの一つの事実。それ以上でも、それ以下でもない」と捉えれば、それが「イヤなことか、そうでないか」というフィルターは働かない。
だから「イヤなことだから忘れたい」という気持ちも起こらない。
では、事実を「事実」とだけ捉えられるようになると、どんないいことがあるのだろうか。
それは「他者を妬むことがなくなる」ということ。
起こっている事実が「イヤなこと」だと認識するから、自分にばかり「イヤなこと」が起こっていることが許せなくて、イヤなことが起こっていない(ように見える)他者が羨ましくなる。
事実を感情で判断しなくなると、他者を妬んだり、批判したりすることがなくなる。「人は人」というメンタリティーになって、自由になれる。
だから、起こった事実について「何を学ぶ機会なのか?」「何に気づくメッセージなのか?」と考えれば、自分の中で冷静に対処できるようになり、他者にもピンポイントでアドバイスを求めることができるので、問題解決につなげられるようになる。
ネガティブに見えることであっても、ポジティブに変換できるので、自分の成長を実感し、自分に対してポジティブな見方ができるようにもなる。
「言うは易し、行うは難し」は百も承知だし、これは私自身がまだ100%習得しきれていなくて、自分に何度も何度も言い続けていること。
「転んでもタダでは起きない」、ゼッタイに。だから、転んだら目の前に落ちているものを、拾えるだけすべて拾ってから、起き上がればいい。
「最後の答えは自分の中にある」と自覚した時から生きるのがラクになるし、イヤなことがあっても、ちょっとした気分転換で「自分を再生」できるような、自分の中に「安心安全な場所=心理的に安全な場」が作られる。
心理的安全性をシゴトにしようと思ったワケ
ところで、最近コーチングや企業内での1on1がきっかけで、「心理的安全性」というコトバが飛び交うようになり、心理的安全性に関する本や認識が一気に増えた。
「何を言っても大丈夫、何を言っても否定されない」。
私にとって「心理的安全性が守られた場」は「温泉みたいな場所」だと思っている。いつも安定していて、その場にいると安心をもらえて、気づけばリラックスして、己を解放したくなる。
でも「心理的安全性」と言われていても、実際はそうじゃないところはたくさんあるし、「なんちゃって」のところも結構あると思う。
私は、心理的安全性を提供することは、誰にでもできることではないと思っている。
これができる人は、ビジネスシーンで「私は心理的安全性が保証できる人です」と公言でき、
心理的安全性の環境を作り、それをスキルにして人に伝えられることは、職業になるとさえ思っている。
それくらい、本当に「心理的安全性」が保証された場所は、本当に少ない。
そもそも人を含めた動物は、その場に身を置いた時に、理由なんか考える前にその場所が「安全か」「危険か」察知する感覚は、生まれた時から本能として備わっている。
だから、いくら論理的に「安全である」と言われたとしても、セオリーで作られた「安全」は、なんかしっくりこないし、どこかで安心し切らない。
それなのに、大人になると「アタマ=ロジック」に頼ってしまい、「安全とは何か」というロジックばかりが先行して、感性が使えないほど鈍くなっていることが多い。
心理的に本当に安全な場所は、たとえこちらが「構えの姿勢」でその場に入っても、気づけば自分の緊張が溶かされているタイミングがあるハズなのに。
私が心理的安全性を仕事にしようと思った経緯は、自分が中高の教員として、8年間女子中高生と向き合ってきたことにある。
特に教員になろうという意志もなかったのに教員養成大学に行ったのは、教育に興味があったことは事実だけど、音楽を専門に勉強するとしても、音大に行くより普通の大学を卒業する方が一般企業に就職するなら有利かな、という安直な考えだったから。
でも、大学4年で母校の高校に教育実習に行った時、授業を作るのも楽しかったし、生徒たちに伝えたいメッセージもたくさんあったけれど、教員としては何一つ自分の思うようにはうまく伝えられず、こんなに未熟な自分なのに、生徒たちに「先生」と呼ばれる毎日が本当に苦痛だった。
そして「自分は学校の先生には向かないな」と思った一番の理由は「生徒と自分との人間関係が流れてしまって、ちゃんと作れていない」と感じたからだ。
いっぺんにたくさんの生徒を相手に授業をしていると、子供たちは一人一人違うのに、ちゃんと向き合うことができない。
そんなことを教育実習の間に気づき、実習の最後に、自分の大学の指導教官や先生方をお呼びした研究授業がうまくいかず、終わった後にトイレで涙し、自分の人生で教員になることは、きっとないだろうと思っていた。
でも「苦手を克服しろ」というお告げなのか、大抵苦手意識のあることは向こうからやってくるのが運命(笑)で、宝くじに当たるかのように、逃げで進んだ大学院に進学してすぐ、ありがたいことに私を教員として採用したい、という学校に出会った。
「教員志望ではなかった自分」が勤めるには申し訳ないような名門校で、最初は「先生」と呼ばれるたびにビクビクしながら(笑)「どうやって自分が感じている課題を克服していこう?」と考え続けた。
「一人一人の生徒に向き合うことが大切である」ということは普段から意識していたけれど、もちろん同時に、集団教育の面白さもたくさん教えてもらった。
当時始まったばかりの「総合的な学習の時間」では、環境・リサイクルや移民をテーマにした教育ワークショップの企画・運営に携わり、グループワークの中で生徒たちがお互いにどう関わっているのか、客観的に観察することができた。
同年代の生徒同士が同じ課題に話し合って取り組むことで、他の生徒から刺激を受けて、自発的に行動したり、思考が深まっていったりする。それは、いくら大人が言葉で伝えようとしても、限界があることだ。
でも、結局一人一人の生徒と向き合う時間・機会が足りないというジレンマは、8年間抱え続けた。
当時「自分は教員には向かない」というコンプレックスを、一体私はどうしていたのか?
改めて当時を思い返して考えたら、「『何を言っても否定しないから、大丈夫だよ!』というメッセージを生徒に伝えるために、自分はどんな環境を作ってあげられる? それをどうやって見せてあげられる?」という思考に変換していたことに気づいた。
心理的危険性に晒されている子供たち
「子供たちは、心理的危険性に晒されている。」
私はそう思っている。
例えば、学校では「友達からどう見られているか」「先生からどう評価されているか」を気にすることが多く、家庭では「親にさえ言いたいことが言えない子供」が多い。
生徒と面談をしていても、家庭に「心理的安全性が保証された場」が少ない、ということをひしひしと感じていた。
でもその一端として、私を含めた親自身が「家庭に心理的安全性がない環境」で育っていることに、原因があると思っている。インナーチャイルド、幼少期のトラウマ、親のマイナス思考…
今でこそ減ったけれど、典型的なのは、学校の成績の相対評価(本人の達成度に関係なく全体順位からの%評価)や試験の順位発表、などなど。 私のように、いまだに苦しんでいる「親になった大人」はたくさんいる。
だから、実は「心理的危険性に晒されている子供」はたくさんいて、それが「人との関係における現代の”ひずみ”を、計り知れないほど生んでいる」という事実は、もっともっと社会で取り沙汰されるべき課題だと思う。
私自身は、家がなかったわけでも、食事ができなかったわけでも、教育を十分受けさせてもらえなかったわけでもなかった。だから「自分は不幸だ」と言ってはいけないと思っていた。
でも、自分が育った家庭の中には、精神的な安らぎを与えられることも、自分の夢を応援されることもなかったから、
自立するために、親から逃げるために、収入を得ることを目的にちゃんと就職することが人生で一番重要なことだと、ずっと思っていた。
「学歴至上主義」の両親の思惑と「努力すれば成果が出やすい学校の勉強」に自分が注力することは、多分利害が一致したカタチだったんだと思う。
でも、実際に大学に入ったら「学歴がいいこと」と「社会で活躍できること」は、まったく違うことを身をもって体験した。
それどころか、学歴を自慢する人は、他に自慢できることがないように見えてきて、かわいそうにさえなってきたりしたのだ。
私にとって「ずっと正しいと思っていた親の価値観」に強烈な弾が打ち込まれ、ボロボロに崩れ落ちた最初の体験だった。
その時に、親ではなく「自分の価値観で物事を判断すること」「多角度からフラットに物事を考えること」の大切さに気づいた。
「自分を表現すること」は、心理的安全性が保証されていないとできない。
中高で音楽の授業をしながら「自分を表現することの価値」に改めて気づき、
「日本の子供たちは、自己表現が苦手だなと感じるけれど、海外の子供たちは、自由に自分を表現しているように見える。日本と海外の学校教育には、どんな違いがあるのだろう?」と思って、フランスに留学した。
いろんな国の子供たちを、今まで2,500人くらい見てきたけれど、一人一人が違うことは大前提でありながら、意外にも大筋で傾向やパターンが見えてきた。
「自己表現ができる環境を守る=心理的安全性を保証する」環境づくりが、今の私のテーマになっている。
だから、私のように親が「家庭に心理的安全性がない環境」で育っていたことが原因で、今の時点では、家庭に心理的安全性が保証された場が少なかったとしても、
まずは私自身が、親に向けて心理的に安全な場を提供して「親は我が子に向けて、安心安全な環境を作ることができるんだよ」というメッセージを発信しながら、保護者に「心理的安全性の環境の作り方やスキル」を伝えて、家庭に安全な場を増やすことが急務だと感じている。
そして、それを伝えるために、親子1on1がある。
「親子1on1産みの親」にとって、親子1on1とは?
最近コーチに言われたことがキッカケだったけれど、親子1on1は、多分「私自身が自分の親に望んでいた親子関係」なのだと思う。
自分を一人の人間として認めてもらい「自分が考えていること・疑問に思っていることを、親子で向き合ってじっくり話し合いたい」、そう思っていたんだと思う。
でも、現実にはそんな環境は許されず、もどかしい想いを抱えながらも、どこかで「親子はそういうものだ」と思っていた。
だから「家庭の中に心理的安全性がなかった」ことは「ただの事実」とだけ捉え、
「最後の答えは自分の中にある」と自覚した時から生きるのがラクになり、イヤなことがあっても、ちょっとした気分転換で「自分を再生」できるような、自分の中に「安心安全な場所=心理的に安全な場」が作られた。
そして、体験した「事実」は、我が子の子育てや仕事に活かされている。
心理的安全性を保証している人は、それを「ビジネススキル」として公言できる。
心理的安全性の環境を作り、スキルにして伝えている人は、それを「職業」として公言できる。
私の自分軸にある「子供たちの味方でいたい」というのは、子供たちがどうしても社会的弱者になりやすいから。そしてその「子供たち」には「昔の子供たち」も含まれている。
だから私は、心理的危険性に晒されている今と昔の子供たちに対して、「親子1on1」を通じた心理的に安全な環境づくりを、これからもっともっと、たくさんの人たちに、広く伝えていきたいと思う。
【オマケ】自分にとって「最強のコーチ」から受けたコーチング、動画を見ながら振り返ったら、A4・7ページ分の気持ちがドバーーーッと出てきた。今回のブログ記事は、このメモが基になっています ^^
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